【2024年4月】感動!衝撃の事実を発見! 山下清展を見てきて~佐賀県立美術館~

*本記事には一部プロモーションをふくみます

この記事に載せている山下清作品の写真は佐賀県立美術館にて写真・SNS掲載OKのコーナーよりとったものです。

裸の大将として知られる画家・山下清。子供のころの芦屋雁之助さん演ずるドラマのイメージが強く、白いランニングに短パン姿。旅に出ては絵をかき、おにぎりをもらって食べ、身バレすると逃げるように去っていく。そんな遠い記憶とともに生誕100年 山下清展-100年目の大回想-に行ってきました。いやいや、見ごたえありすぎでした。作品数のボリュームに驚き、山下清の名言にうなづき、残されているビデオを見て、軽く3時間は美術館に滞在していました。(もっと細かく見たいところもありましたが時間がなく断念)。今回は、今までのイメージ(ドラマに脚色され大げさに盛られている部分)とは違う、展覧会でわかった実際の山下清像もお伝えしていきます。

目次

生誕100年 山下清展-100年目の大回想-

日時 2024年3月16日(土曜日)~ 2024年5月12日(日曜日)

佐賀県立美術館   (月曜休館 ※祝日の場合は翌平日に休館)

9時30分~18時  入場は17時半まで

 一般 1,300円  中学生・高校生 900円  小学生以下 無料

佐賀県立美術館ホームページはこちら

駐車場は博物館と合わせて136台可能。うち身障者用5台。

佐賀城内にある美術館です。隣には博物館もあり1日過ごせますよ。都市圏で開催される山下清展よりじっくりゆっくり見れて、同じ展覧会見るなら地方での開催にお得感を感じてしまいます。さらに道の向こうには佐賀城も。ここは無料で入場見学できておすすめスポットです。

吃音は生まれつきじゃなかった!?

1922年3月10日、平和記念東京博覧会の開幕日。祝祭に賑わうこの日に生まれ、縁起の良い日にと周囲を喜ばせた。

1923年に関東大震災に見舞われ一家は新潟での生活を余儀なくされた。そこで重い消化不良をおこした清。3ヶ月もの闘病生活後、完治したものの後遺症が吃音という形で残った。

吃音をばかにされ、いじめられた清は絵を描いて遊ぶように。

幼いころから虫と遊んで観察眼の鋭かった清のこのころの絵はすでに細かく描かれていました。鉛筆で描かれた街の風景や花火の絵も展示されていましたが、それはそれは細かい描写でした。

子供時代の花火の絵はすでに大作の「長岡の花火」に通ずるものがあったよ

放浪の理由は徴兵検査を逃れるため!?

通常小学校から養護施設の八幡学園に編入した清。そこで貼り絵と出会い人生が変わっていきます。

18歳で突然、八幡学園をとびだした清。日々、よその家でご飯をもらいながら、とびこみの住み込みで仕事をしながら放浪の旅を続けます。社会的な束縛のない自由と美しい景色を求めて。

しかし、もう一つ理由があったようです。18歳となり徴兵適齢期となった清。徴兵検査を避けるためには逃亡するしかなかったのですね。戦争は嫌だと言っていた清。しかし、家に戻った清を母は許さず、徴兵検査を受けさせますが、不合格になります。

白のランニングシャツではなかった!?

これぞ我々がイメージする山下清のビジュアルですが実際は違ったそうです。放浪の旅では夏は浴衣、冬は着物。はじめは風呂敷に入れていた荷物も盗難にあったことがあり、リュックサックにかわりました。 浴衣とリュックも展示されていましたよ。

有名になった後は白いランニングシャツというイメージを払拭させるためベレー帽にスーツだったとか。

放浪中は絵を描いてない!?

なにしろ荷物の中身は2個の茶碗(ご飯用、汁物用)、箸、手拭き着替え、護身用(犬に吠えられたとき用)の石ころ5個。スケッチブックなんか持って行ってなかったのです。

とびぬけた記憶力と鋭い観察眼で見た景色を持ち帰り、作品作りを行っていたというから本当にびっくりします。

物販コーナーで見本販売されていたジークレー版画  「長岡の花火」

放浪をやめた理由は身動きがとれなくなったから!?

1954年(清・32才)アメリカのグラフ誌「ライフ」に清の作品が掲載されたことが発端で、朝日新聞社が全国に天才画家・山下清の捜査網を掲載した。

4日後には鹿児島にて地元の高校生が発見し、弟の辰造さんの迎えにより東京へかえることに。

八幡学園長に「放浪を辞める誓い」というものを書いていたが、やめることはできなかったようです。

ただ、有名になりすぎた清は以前のような自由な放浪の旅はできなくなっていました。そこでスタイルを変えて、絵を売ったお金で汽車に乗ったりお弁当を買ったりしたそうです。絵が売れて生活できるということに絵に関しては一人前という自信がついたと話しています。

その後の東京の大丸での展覧会は80万人のお客さんがきたそうです。

ヨーロッパにも行っていた

1961年(清・39才)当時、稀少なヨーロッパ旅行を実現し、ヨーロッパで見た風景を作品として残している。

旅行中は行程時間の都合上スケッチ程度になったらしいが、そもそもスケッチブックをもって旅するのはこれが初めてとか。

物販コーナーで見本販売されていたジークレー版画 「スイスの風景」

帰国してからの貼絵作品はこよりと無数の小さなチップの集合からなるすばらしい作品が多く、展覧会で長時間見ていても見足りないようなかんじになりました。ひとつひとつの建物、人。水面のきらめきや山を作り出す木々。見れば見るほど新しい発見があるのです。凹凸もあり、つい引き込まれてさわりたくなるほどです。

最後に

山下清というまっすぐな目で見た昭和の日本を見ることができました。

絵とともに紹介される山下清の言葉もまっすぐ胸に入ってくるのです。

みんなが爆弾なんか作らないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんて 起きなかったんだな(山下清)

富士山を見る前は もっと美しい山だと思っていたものが 本物を見たら 自分の思ったより美しく見えなかった はじめ見たときは美しく見えても よくばって いつ迄も見ていると美しく見えなくなってしまう 何でもよくばって見ていると 美しく見えなくなるという事がよくわかりました(山下 清)

絵も天才ですが文言も天才ですね。まあ、意図して発しているわけではなく、思ったことを思ったままに発しているのでしょうが、それが天才というものでしょうね。

購入した山下清 百年目の大回想図録の裏表紙

今年の花火見物は どこに いこうかな(山下 清)

これが最期の会話だったそうです。とても彼らしいです。

224ページにも及ぶこの本をみながらいろいろなエピソードを読み返し、画家・山下清を堪能したいと思ってます。

ぜひ、佐賀へ行ってまっすぐな絵とまっすぐな言葉のシャワーを浴びてくることをおすすめします。

窮屈なところから解放してもっと自然体で生きていっていいんだなと感じさせてくれる山下清展でした。

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