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2024年7月3日に3種類の新紙幣が発行されます。一万円札は渋沢栄一、五千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎の肖像が描かれます。三者はそれぞれ「日本近代経済の父」、「女子の高等教育の先駆者」、「日本近代医学の父」といわれています。その中でも九州にゆかりの深い北里柴三郎についてわかりやすく解説いたします。
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北里柴三郎の読み方は?
北里柴三郎は何をしたのか?功績は?
ノーベル賞はとったのか?
福沢諭吉、森鴎外、野口英世との関係は?
名前は「きたさと?」「きさざと?」どっち?
キタザトシバサブロウとして阿蘇郡小国郷北里村(あそぐんおぐにごうきたざとむら)に総庄屋の長男として産まれました。教育熱心な両親のもと、五歳から寺子屋に。その後、私塾→藩校→熊本医学校→東京医学校(東大の前身)へと医学の道へと進んでいきます。
その後の就職先として内務省に入省します。そこでドイツへの留学が決まります。しかも生涯の師となる、憧れのコッホ博士(細菌学の父)のもとに。
そのドイツ留学中に、ドイツ人に「キタザト」と呼ばせるためにわざと「kitasato」と書いたそうです。
ドイツ語ではsaをザと発音するんだよ。
それが英語で読むと「キタサト」となるわけです。公式ではどちらでもよいということになっています。
北里柴三郎は何をした人
破傷風の純粋培養
ノーベル賞リストにのっていた
ペスト菌の発見
北里研究所の設立など感染症予防や細菌学に貢献….etc
???
ひとつづつ説明しよう
破傷風の純粋培養
当時、破傷風の細菌は単独では培養できないというのが定説だったんだよ。それを単独で培養する方法を発見したんだ。
常識を疑って追及することが大事なんだね。
これにより血清療法を発見して感染症治療に貢献したんだ。
血清療法は新型コロナの治療でも使われたね。
ドイツから帰るときは、ケンブリッジ大学の研究所長やペンシルベニア大学からのオファーも断って日本の衛生に貢献したいと帰国したんだって。
ノーベル賞リストにのっていた
当時、ヨーロッパでで流行っていたジフテリアに対して、ベーリングと共同で血清療法を利用した治療法を研究しました。北里とベーリングとの共同論文も発表し、北里は破傷風、ベーリングはジフテリアの免疫について書いています。
その後、ベーリングだけがノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
なんで一人だけなの?
ジフテリアの方が破傷風より感染症としての脅威が大きかったからだと思われるよ。
でもベーリングの血清療法は北里の後追いだったんでしょ?
賞は絶対、北里博士がとるべきだよ。
当時は複数人の受賞が想定されていなかったということと、アジア人への偏見もあったようだね。
最終手前の15人の候補の中には ”Shibasaburo Kitasako”ってスペルミスでのっているわよ。
ペスト菌の発見
香港で流行していたペストを調査するため、政府より派遣されます。儒教思想で死体の解剖を嫌がる中国の地で、ペストの調査は非常に困難で危険を伴うものでした。
検体となる死体の運び出しも市民に見つからないように、解剖中も窓も太陽の光も当たらない臨時の密室で死体と向き合うのです。異臭と湿度と暑さとの戦いで、しかも手袋や術衣もない。いつだれがペストにかかってもおかしくない状態です。
極限な状況の中の研究で1週間後にはペスト菌を発見するのです。残念ながら調査隊の1名はペストにて命をおとしてしまいます。
人類の歴史で発見や発明には多くの犠牲のもとにあるんだね
コレラの血清療法を世界初で行う
東京でコレラが大流行したさいは、世界で初めてコレラの血清療法を行い多くの命を守りました。国は北里に血清製造の技術や設備を譲ってほしいと打診します。北里は国のためになるのならと了承し、国立の「血清薬院」が開設されました。
北里研究所の設立
突然、伝染病研究所が内務省から文部省に移管される(宿敵東大のもとに付属される!ということ)ことに決まり、怒りの収まらない北里。辞表をだし、自分で「北里研究所」を設立します。北里のあだ名はドンネルといって、ドイツ語で雷という意味だったそうです。怒ると手が付けられなくなり、激情的だったようです。しかし辞表をだして伝染病研究所を離れる時は、そこで働いていたすべての職員がついてきたといいますから、彼の人柄がわかるエピソードです。
北里研究所はその後の感染症研究、予防や治療に大きな貢献を果たしています。
その後、福沢諭吉の恩に報いるように慶応義塾大学医学部を創設し初代医学科長に就任。私立の大学医学部一号として医学教育を牽引しました。
日本医師会の創設し全国の医師を束ね、日本の公衆衛生に寄与しました。
森鴎外との関係は
東京医学校で医学の道を目指した柴三郎。同時期に森鴎外も東京医学校で学んでいました。
東京医学校は14歳から18歳までが入学の条件。すでに22歳だった柴三郎は願書に18歳と書き年齢詐称をして入学しました。逆に森鴎外は12歳で年齢詐称をして入学しました。森鷗外が神童といわれていたというのも納得ですね。
柴三郎はドイツにいるときに東大医学部の緒方正規の脚気細菌説を否定した論文を書いたんだ。
時代が時代よ。
日本での師である緒方先生を否定する論文は日本では大きな波紋をよんだの。
でも、間違っていることを間違っていると指摘することは大事だと思う。
柴三郎もそうとう悩んだらしいが、科学に私情をはさんでいては、真実を究明することができないと思い直し論文を発表した。
これ以降、東大医学部vs北里柴三郎の構図ができてきたのです。
森鷗外は「北里は識を重んぜんとする余り果ては情を忘れた」と書きました。
それに対して北里は「情を忘れたのではなく、情を制したのだ」と反論しました。
さらに「私は世間からいくら批判されても一向に頓着しない。憂慮するのは、医学の真道を踏み誤って岐路に陥ろうとしている日本医学会の傾向だ」と宣言しました。
これ以降、森鷗外は柴三郎を繰り返し批判します。
閉鎖的な医学界、東大、日本政府、文部省との確執がはっきりとなった一件です。
なんだか敵が多いな
北里博士は日本のことを考え、正しいことに一貫した姿勢をとり続けたってことね。
福沢諭吉との関係は
こういった理由で、世界で活躍した柴三郎も、日本に帰ってくると冷遇されます。「すぐれた学者を擁しながら、これを無為に置くのは国家の恥」。福沢諭吉は柴三郎に無償で土地を提供し研究ができる環境を与えました。今でいうパトロン的な存在ですね。
創設した伝染病研究所を移設する際の地域住民の反対運動時に尽力したのも福沢諭吉です。地元住民に安全、安心をアピールするために次男一家を伝研の隣に住まわせます。さらに、反対運動の鎮静化に疲れた柴三郎が大日本私立衛生会に辞任届を出すまでの心情を書いた手紙を福沢諭吉が公表して、世間の同情を買うのですが、これもまた、福沢諭吉の自作自演なのです。手紙は諭吉自らが書いたというわけです。
ペスト調査で柴三郎が香港に行ったときは、「北里を殺してはならぬ。学問のために大切な男だ」といって帰国をすすめ、研究者北里への絶対的な信頼を感じます。逆に北里にとっては人生の最大の恩人が福沢諭吉なのです。
野口英世との関係は
伝染病研究所は国からの補助金も受けるようになり発展します。様々な菌の研究や血清療法の実験が行われ、全国から優秀な研究者が集まりました。そのうちの一人が野口英世です。伝染病研究所を足掛かりにアメリカへわたり様々な業績を残すことになります。北里柴三郎から直接指導をうけたというわけではありません。
最後に
予防医学、衛生学や後進の教育、日本の医学界の発展に生涯かけて尽くしてきた北里柴三郎。自分の信念を曲げない精神は見習いたいものです。
2019年4月に財務省より新札発行予定の発表がされました。その後の新型コロナの猛威を予言していたようなすごいタイミングですね。現行のお札の福沢諭吉や野口英世との関係も考えると普段、当たり前のように持っているお札も興味深く見ることができます。
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